妖魔詩話

 最近1件の古本屋を散策している時に、沢山(たくさん)の妖魔の絵を収録した3巻からなる妖魔詩集を見付けた。詩集の名前は「狂歌百物語」という。百物語とは有名な怪談話の本のことだ。話の個々の主題は、異なる時代の様々な者達の詩で構成されている──詩の区分は狂歌と呼ばれる──そしてこれらは収集され私が幸運な所有者となった3巻の形式に編集された。詩集は確かに工匠甚五郎(たくみじんごろう)によって「天明老人」の筆名の下(往古の天明時代)に書かれた。工匠が死んだのは文久元年(1861年)、八十歳の大往生であり、嘉永6年(1853年)の出版と詩集に見える。絵は「竜斎閑人(りょうさいかんじん)」の筆名の下に仕事をした正澄(まさずみ)と呼ばれる画家の作である。
 序文の覚え書きによると、かつては人気が有り世紀のなかば以前に廃れてしまった詩歌の種類を甦らそうと望んで、工匠甚五郎は収集品を出版し公開したのだ。狂歌という言葉は、漢字で「非常識」や「いかれた」を示す独特で風変わりで多様なお笑いの詩を意味する。その形式は古典的な短歌の三十一音節(五七五七七の配置)から成る──しかし主題はいつでも古典的とは対極にあり、芸術的な効果は数多くの先例の助け無しでは説明できない、言葉の曲芸の手法に依存する。工匠によって出版された詩集は、西洋の読者が価値を見い出せない数多くの要素を含むが、その最高の物が持つ明白で奇怪な特色は、恐ろしい主題で遊ぶフッドの怪奇な技巧のひとつを思い出させる。この特色と恐ろしさに遊び心を混合させる日本独特の手法は、様々な狂歌の原文をローマ字で模写し、翻訳と注釈を添えてのみ暗示と説明ができる。
 私が行った選抜は、それが少ししか、あるいは全くまだ英語では書かれていない、日本の詩歌の一種について読者へ紹介するからだけでなく、それ以上に大部分がまだ未発見のまま残された超自然の世界を(いく)らか垣間(かいま)見させてくれるから、面白いと保証する。極東の迷信と民話の知識無くして、日本の小説や芝居や詩の本当の理解は決して可能とは成らない。

 3巻の狂歌百物語には何百もの詩が有るが、幽霊や妖魔の数は書名が示す百には足りない。ちょうど九十五である。この妖かし全部が読者の興味を惹くとは推測できないから、主題の7分の1未満の選抜とする。陶子(とくりご)、舌長娘、三ツ目坊主、枕返し、千首(せんくび)提灯小僧(ちょうちんこぞう)夜鳴泣石(よなきいし)五位鷺(ごいさぎ)魔風(まふう)龍燈(りゅうとう)山姥(やまうば)は、印象に残らなかった。西洋人の神経には凄惨過ぎる空想──例えば、姑獲鳥(おぶめどり)のような──また単なる土地の伝統としての扱いなら狂歌の選択から外した。地方の民間伝承よりむしろ全国を代表する主題を選んだ──かつて国中で広く認められ、一般的な文学にしばしば取り上げられた古い信仰(大部分はチャイナ起源)である。

一、狐火(きつねび)
 ウィル・オー・ザ・ウィスプは『狐火』と呼ばれるが、昔は妖狐がそれを生成すると想像されたからである。古い日本の絵画でそれは、暗闇を浮遊する青白く赤い舌のように表現され、すっと動く時に外面が発光を放たない。
 この主題で取り上げる幾つかの狂歌を理解するため、読者は狐が起こす各種のおかしな言い伝えの妖力について、ある迷信を知っておくべきだ──他所者との結婚に関するもののひとつである。以前のまともな一般人は、外部ではなく自身の共同体からの結婚を期待され、この考えの中で伝統的な慣例を無視する男は、それの集団的な憤怒をなだめるのが困難であると悟る。今日でさえ、長らく生まれ故郷を留守にした後の村人が見知らぬ嫁を連れて帰ると、もっともらしく意地悪な事を言われる──このように、「分からない物を引っ張って来た……何処(どこ)の馬の骨だ。」(「誰も知らないどんな種類の物をここまで後ろに引きずるのか、何処で拾い上げた古い馬の骨なのか。」)馬の骨、「古い馬の骨」の表現は説明を要する。
 妖狐は多くの形をとる力を持つが、男を騙す目的のため通常は可憐な女の姿をとる。この種の魅力的な見せ掛けを造ろうとすると、古い馬の骨か牛の骨を拾い上げて口に(くわ)える。やがて骨は光り輝き、その回りに──遊女か芸妓(げいこ)の形体で──女の姿の輪郭を形成する……そういう訳で、見知らぬ嫁と結婚する男への疑問について「どんな古い馬の骨を拾い上げたのか」が本当は、「どんな尻軽女が誘惑したのか」という意味になる。それは更に、他所者は特殊部落の血筋かも知れないという疑いを含んでいる 。ある種の遊び()は、古くから主にエタや他の下層階級の娘の間から募集されてきた。

   灯ともして
 狐の化せし、
   遊び女
 いずかの馬の
 骨にやあるらん

〔──ああ、その尻軽女は(提灯に灯を点けて)──そうして狐が変化(へんげ)する狐火を燃やす……おそらく本当は何処かしらの古い馬の骨でしかない……〕

   狐火の
 燃ゆるにつけて、
   わがたまの
 消ゆるようなり
 こころほそ道

〔この狭い道で(あるいは、この気が滅入る寂しい場所で)狐火が燃えているから、まさに私の魂は消えていくようだ。〕

二、離魂病(りこんびょう)
 『離魂病』という用語は、「影」「念」「化生(けしょう)」を示す「離魂」の言葉と、「病気」や「疾患」を示す「病」の言葉で構成される。文字通りの表現で「念の病気」と言っても良いだろう。和英辞典で「離魂病」の意味が「心気症(ヒポコンデリー)」の定義で見付かるであろうし、医者達は実際この近代的な感覚で専門用語を使う。しかし古くからの意味は、分身を造り出す心の疾患であり、1冊全体がこの異様な病にまつわる不思議な文献が存在する。それは恋愛を原因とする激しい絶望や恋慕の影響下で、苦しむ者の精神が分身を造り出すのだろうと、以前はチャイナと日本の双方で信じられていた。このような離魂病の被害者は寸分違わぬふたつの体を持って現れ、この体のひとつは、そこには居ない愛する者の元へ会いに行き、もう一方は家に残ったままである。(私の「異国情趣と回顧」の「禅書の一問」の章から読者はこの主題の典型的なチャイナの話を見付けるだろう──(むすめ)(しん)の話)分身と生き霊の幾つかの素朴な信仰形態は、おそらく世界のどの地域にも存在するが、この極東の多彩さは、恋愛が分身の原因になると信じられていたから特別興味深く、女性に有りがちな苦悩が対象である……離魂病という用語は、精神の乱れが化生を造り出す想定と同様、その化生にも適用されているようだ。それは「念の疾患」と同様に「霊的分身(ドッペルゲンガー)」をも意味している。

 ──この必要な説明と共に、次の狂歌の質が理解できるようになる。狂歌百物語に出てくる1枚の絵は、1杯のお茶を女主人──「念の病気」の被害者──へ差し出すのを不安がる侍女が見える。侍女は目の前の本物と化生の姿の間で見分けができず、その状況の難しさは翻訳した最初の狂歌に示されている──

   こやそれと
 あやめもわかぬ
   離魂病、
 いずれを妻と
 引くぞわずらう

〔こちらなのか──あちらなのか、見分けが付かない離魂病のふたつの姿 。どちらが本当の妻か見付け出すのは──精神の苦悩であろう全く。〕

   ふたつ無き
 いのちながらも
   かけがえの
 からだの見ゆる──
 影のわずらい

〔命がふたつ無いのは確実だ──にも関わらず、影の病のせいで余計な体が見える。〕

   長旅の
 (おと)をしたいて
   身ふたつに
 なるを女の
 さる離魂病

〔離れた旅に在る夫のあとを慕う女は、霊的な病気のため、こんなふたつの体になる。〕

   見るかげも
 無きわずらいの
   離魂病──
 おもいの他に
 ふたつ見る影

〔霊的な病気の為に、見える影が無い(と言われている)けれど、──予想外の2つの影すら見える。〕

   離魂病
 人に隠して
   奥座敷、
 おもてへ出さぬ
 影のわずらい

 離魂病の苦悩、彼女は奥の部屋へ人々から隠れ去り、家の前へ出ようとはしない──影の病のせい。〕

   身はここに
 (たま)は男に
   そい寝する──
 こころもしらが
 母がかいほう

〔体はここに横たわるが、魂は遠くへ行って男の腕に眠る──そして白髪の母は、娘の心をよく知らず(体だけ)看病している。〕

   たまくしげ
 ふたつの姿
   見せぬるは、
 あわせ鏡の
 影のわずらい

 もし、化粧台に座っている時なら、鏡に映った彼女の顔をふたつ見る──影の病の影響下で合わせ鏡になったからであろう。〕

三、大蝦蟇(おおがま)
 古いチャイナと日本の文献で、蝦蟇は超自然的能力を持つと信じられた──雲を呼び寄せる力、雨を降らす力、口から魔力の有る霧を吐き出して極めて美しい幻影を造る力等である。善良な精神で、聖者の友人の蝦蟇も幾らか存在する──日本の芸術で有名な「蝦蟇仙人」と呼ばれた聖者は、通常肩の上に止まるか、(そば)にしゃがむ白い蝦蟇と共に描写された。幾つかの蝦蟇は邪悪な妖かしであり、人を破滅へ誘い込む目的で幻像を造り出す。この種の生物についての代表的な話は、拙著「骨董」の中に「忠五郎の話」と付けた題名で見付かるだろう。

   目は鏡、
 口は(たらい)
   ほどに()
 蝦蟇もけしょうの
 ものとこそ知れ

〔その目は大きく開かれ(丸い)鏡のようであり、口は洗い(おけ)のそれのように開いている──この事から、蝦蟇は魔性の物(あるいは、蝦蟇は化粧の品)と知りなさい。〕

四、蜃気楼
 『蜃気楼』という呼称は、「幻像」の意味として、また極東の寓話の仙境、蓬来の別名としても使われる。日本の神話の様々な存在が、蓬来の蜃気楼を造り出す死にいたる欺きの力を持つと信じられた。古い絵のひとつに、蝦蟇が口から蓬来の形をした幻影の(もや)を吐き出す行為をする表現を見ることができる。しかし、とりわけこの幻影を生じさせる習慣のある生き物は、(はまぐり)である──二枚貝によく似た日本の軟体動物のひとつ。その殻を開け、紫がかった霧の息を空気中に送ると、その霧は真珠層の色彩の中に蓬来と龍王の宮殿の輝く映像の形を明確にとる。

   はまぐりの
 口あく時や、
   蜃気楼
 世に知られけん
 (たつ)宮姫(みやひめ)

〔蛤が口を開く時──見よ!蜃気楼が出現する……その時は皆が龍宮の乙姫を明瞭に見られる。〕

   蜃気楼──
 龍の都の
   雛型
 潮干の沖に
 見するはまぐり

〔見よ!引き潮の沖を、はまぐりが蜃気楼で小規模な幻の映像を作っている──それは龍の首都!〕

五、ろくろ首
『ろくろ首』の語源の意味を、どんな英語の表現でも簡潔に示すことはできない。『ろくろ』という用語は、回転する物体の多くを無頓着に明示するのに使われる──物体は、滑車、巻き取り車、(いかり)の巻き上げ機、回転旋盤、陶芸の轆轤(ろくろ)といったように似ていない。ろくろ首の表現を、このような『旋回首』や『回転首』にするのは思わしくない──この用語が示す日本人の思い付きは、旋回する首がその回転の方向に合わせて伸びたり縮んだりするからである……妖かしとしての表現が意味するろくろ首はと言えば、(1)寝ている間に首が驚くほど延びる者で、そうして頭はむさぼり食える物を捜しに、およそどの方向へも彷徨(うろつ)くことができるか、(2)体から頭を完璧に取り外して、後で首へ再結合できる男か女の人である。(この最後に言及したろくろ首の一種については、拙著「怪談」に日本語から翻訳した珍しい話が有る。)頭の完全な分離を可能とするような、首がそうした構成のチャイナの神話的存在は特種な階級に属するが、日本の民話にこの特徴がいつでも維持されている訳ではない。ろくろ首の特徴に、夜の灯火の油を飲む悪い癖がある。日本に於ける絵画のろくろ首は通常女として描かれ、古い本が言うには女がそれと知らないままろくろ首になるそうだ──夢遊病者が眠っている間に歩き回るのと同様、事実の存在に気付いていない……次のろくろ首にまつわる詩は、狂歌百物語の中の二十首から選んだ──

   寝乱れの
 ながき髪をば
   ふりわけて
 ちひろに延ばす
 ろくろ首かな

〔おお!……眠りで乱れた結わない長い髪をゆらして、ろくろ首は千尋(訳注:約千八百メートル)の長さへ首を伸ばす。〕

   「頭なき
 化けものなり」─と
   ろくろ首、
 見ておどろかん
 おのが体を

〔ろくろ首は(背後に残された)自分の体を眺めて驚き「ああ何て事、あなた頭の無い妖怪になったのね」と叫び出さないだろう。〕

   つかの間に
 (はり)をつたわる、
   ろくろ首
 けたけた笑う──
 顔のこわさよ

〔すたすたと、天井の梁(天井の支柱)に沿って滑空する、ろくろ首が「けたけた」と声を出して笑う──おお、恐るべきは彼女の顔。〕

   六尺の
 屏風(びょうぶ)にのびる
   ろくろ首
 見ては五尺の
 身をちぢみけり

〔六尺の屏風の上へ浮上するろくろ首を拝すると、五尺程度の者は、恐怖で縮むだろう(あるいは、幾らかの者の身長は、五尺の高さから減少するだろう。)〕

六、雪おんな
 雪の女、あるいは雪の残像、様々な形態を想定されているが、古い民話のほとんどに美しい見掛けで現れ、その抱擁は死である。(彼女についての非常に珍しい話が拙著「怪談」で見付けられる。)

   雪おんな──
 よそおう櫛も
   厚氷(あつこおり)
 さす(こうがい)
 氷なるらん

〔雪おんなであるなら──最高の櫛でさえ、間違っていなければ、厚い氷で作られる、そして髪留めも、氷で作られているだろう。〕

   本来は
 (くう)なるものか、
   雪おんな
 よくよく見れば
いち(ぶつ)もなし

〔全く初めの時から錯覚だったのか、あの雪おんなは──虚空へ消えていく物なのか?注意深く辺りの全てを見たが、痕跡はひとつとして見当たらなかった。〕

   夜明ければ
 消えてゆくえは
   しらゆき
 おんなと見しも
 柳なりけり

〔日の出に消えて行った(雪おんな)、何処へ行ったかは何も言えない。しかし実際は1本の柳の木が、白い雪の女になったように見える。〕

   雪おんな
 見てはやさしく
   松を折り
 生竹ひしぐ
 力ありけり

〔見掛けは細身で優しい雪おんなが現れたとはいえ、それでも、ポキッと松の木を真っぷたつにし、生きた竹を押しつぶす力を持っているはずだ。〕

   寒けさに
 ぞっとはすれど
   雪おんな──
 雪折れの無き
 柳腰かも

〔雪おんなが冷気で震えのひとつを作り出したとしても、すらっとした優雅さは雪にも崩されない(換言すれば、寒さにも関わらず我々を魅了する)。

七、船幽霊(ふなゆうれい)
 溺死した霊は、手桶か柄杓(ひしゃく)(水をすくう物)と叫んで船の後を追うと言われる。手桶や柄杓の拒否は危険であるが、前もって用具の底を叩いて外し、この行動を化生達が見ることを許さず実行して、要求に応じなくてはならない。もし無傷の手桶や柄杓を幽霊へ投げれば、船を満たんにして沈める為それを使うだろう 。この形状の者達を俗に「船幽霊」と呼ぶ。
 1185年に壇之浦の大海戦で滅んだ平家一門、この戦士達の霊は船幽霊の中でも有名である。一門の武将のひとり平知盛(たいらのとももり)は、この異様な役割で名高く、部下の戦士の幽霊達を従え波の上を走り、船達を追い越して襲う古い絵に代表される。かつて義経の家臣で名高い弁慶の航海する船舶を威嚇したが、弁慶は仏教徒の数珠による手段だけで船を救うことができ、化生達は怯えて逃げた……
 知盛は、しばしば背中に船の(いかり)を背負って海の上を歩いて運ぶように描写された。彼と部下の幽霊達は、船舶の錨を引き抜いて持ち去る癖が有ると言われ、無分別に根城──下関の周辺──に(つな)いでいた。

   えりもとへ
 水かけらるる
   ここちせり、
 「柄杓かせ」ちょう
 船のこわねに。

〔もし首のうなじに冷たい水を振り掛けられたように感じるなら、その間──「柄杓貸せ」という──船幽霊の声を聞いている。〕

   幽霊に
 貸す柄杓より
   いち早く
 おのれが腰も
 抜ける船長 。

〔船長自身の腰は、幽霊へ渡す柄杓の底よりも、物凄く早く抜ける。〕

   弁慶の
 数珠のくりきに
   知盛の
 姿もうかむ──
 船の幽霊

〔弁慶の数珠の功徳は、船を追う幽霊さえも──知盛の化生でさえも──救った。〕

   幽霊は
 黄なる泉の
   人ながら、
 青うなばらに
 などて出つらん

〔どんな幽霊でも黄泉(よみ)の住民にるはずなのに、どうやって青い海原に現れたのだろう。〕

   その姿、
 いかりをおうて、
   つきまとう
 船のへさきや
 とももりの霊

〔その姿は、錨を背負って船の後を追う──今は船首に、そして船尾へ──ああ、知盛の幽霊だ。〕

   つみふかき
 海に沈みし、
   幽霊の
 「浮かまん」とてや
 船にすがれる。

〔「すぐに助かるだろうよ」叫ぶ幽霊は、罪業の深い海に沈んで通る船へすがりつく。〕

   浮かまんと
 船をしたえる
   幽霊は、
 沈みし人の
 おもいなるかな

〔再び浮かぼうと(つまり「救われようと」)して、我々の船の後を追う幽霊達の苦労は、溺死した人達の思い(最後の執念)なのかも知れない。〕

   うらめしき
 姿はすごき
   幽霊の
 かじをじゃまする
 船のとももり

〔執念深い形相で、船尾に(出る)恐ろしい知盛の幽霊が、梶の操作の邪魔をする。〕

   落ち入れて
 (うを)の餌食と
   なりにけん──
 船幽霊も
なまくさき風。

〔海で滅んだから、(この平家達は)魚の餌になっているのだろう。(いずれにせよ、いつでも)船を追う幽霊達(の出現)の風は、生の魚の臭いがする。〕

八、平家蟹(へいけがに)
 読者は拙著「骨董」の中に、背中の甲羅の様々な(しわ)が怒れる顔の輪郭に似た、平家蟹の記述を見付けることができる。下関では、この珍しい生き物の乾燥した標本を販売している……平家蟹は壇之浦で滅んだ平家の戦士の怒れる霊魂が形を変えたものだと言われている。

   しおひには
 勢揃えして、
   平家蟹
 浮き世のさまを
 横に睨みつ。

〔潮が引いて(浜辺の上に)整列した平家蟹は、この哀れな世界の見せ掛けを斜めに睨む。〕

   西海に
 沈みぬれども、
   平家蟹
 甲羅の色も
 やはり赤旗。

〔長らく前に(平家は)西の海へ沈んで滅びたけれど、平家蟹は上の甲羅にまだ赤い色の旗を誇示する。〕

   負け(いくさ)
 無念と胸に
   はさみけん──
 顔もまっかに
 なる平家蟹。

〔敗北の痛みからハサミは胸で成長したのだと思う──平家蟹の顔でさえ(怒りと恥で)真紅になる。〕

   味方みな
 押しつぶされし
   平家蟹
 遺恨を胸に
 はさみ持ちけり。

〔全ての(平家の)関係者は、すっかり潰され、心の中の遺恨から、ハサミは平家蟹の胸で成長する。〕

九、家鳴(やな)
 最近の辞書は『家鳴り』の言葉の妖しい意味を無視する──地震の間に家が揺れて出る音と伝えるのみである。しかし、この言葉は、かつて妖魔が家を動かして揺れる物音を意味し 、目に見えない揺らす存在も『家鳴り』と呼んだ。明白な原因が無く、夜中にいくらか家が震えて、きしみ、音を立てると、かつて庶民は超自然的な悪意によって、外から揺らす存在を想定した。

   床の間に
 生けし立ち木も
   たおれけり、
 家鳴りに山の
 動く掛け物。

〔床の間に置いた生きた木でさえ倒れ伏し、吊られた絵の山々は家鳴りの作る振動で震える。〕

十、逆さ(ばしら)
 『逆さ柱』(この狂歌では、しばしば『逆柱(さかばしら)』と短縮される)の用語の文字通りの意味は、「上側が下になった柱」。木の柱は、特に家の柱は、切り倒された木の本来の姿勢と一致して据え付けなくてはならない──つまり、最も根に近い部分を下へ向ける。家の柱を反対のやり方で立てると、不運を招くと考えられた──以前はこのような失敗は、「逆さま」の柱が悪質な事をしようとするから、一種の霊的に不愉快な事象に巻き込まれると信じられた。夜中に嘆きや呻きをあげ、割れ目の全てを口のように動かしたり、全ての(ふし)を目のように開いたりする。更に、その霊魂は(家の柱の全ては霊魂を持つため)材木から長い体を取り外し、部屋から部屋を回ってぶらつき、逆さまの頭で、人々へしかめっ面をする。これで全てという物でも無かった。『逆さ柱』のひとつは、どうやって一家の全ての事態に狂いを作り出すかを知っていた──どうやって家庭内のいざこざを煽動するか──どうやって家族と使用人のそれぞれに、不運を招き寄せるか──どうやって生きていくのが耐えられなくなる寸前へ、大工のへまを見つけ出して、矯正するしかなくなるまで追い込むのかである。

   逆柱
 たてしは()ぞや
   心にも
 ふしある人の
 仕業なるらん

〔誰が逆さに家の柱を設置したのか。きっと心に節を持つ人の仕事に違いない。〕

   飛騨山を
 ()りきてたてし
   逆柱──
 なんのたくみ
 仕業なるらん

〔あの家の柱を、飛騨の山から切り倒して、それからここへ持ち込んで、逆さまに立てるとは──大工仕事の何ができるというのか。(あるいは、「何の悪だくみが、この行為を実行することで、できるのか。)〕

   うえしたを
 違えて立てし
   柱には
 逆さまごとの
 うれいあらなん。

〔上下を間違えて立てた家柱に関しては、必ず災難と悲しみの原因になるだろう。〕

   壁に耳
 ありて、聞けとか
   逆しまに
 立てし柱に
 家鳴りする音

〔おや、壁に有る耳よ、汝は聞こえるか、逆さまに立てられた家柱の(うめ)きと(きし)みが。〕

   売り家の
 あるじを問えば
   音ありて、
 われ目が口を
 あく逆柱。

〔売り家の主人に問いかけた時、応答に奇妙な音だけがあった──逆さ柱が目と口(言い換えれば、それらの亀裂)を開ける音だ。〕

   おもいきや
 逆さ柱の
   はしら掛け
 書きにし歌も
 やまいありとは

〔誰が思えるのか──逆さまに立てられた柱に掛かる、額に書かれた詩でさえ、同じ(霊的)病気を持つとは。〕

十一、化け地蔵
 子供達の幽霊の救済者、地蔵菩薩の姿は日本の仏教で最も美しく慈悲深いもののひとつである。この仏像は、およそ全ての村と全ての道端で見られるだろう。しかし幾つかの地蔵の像は、魔物の仕業だと言われている──様々な偽装をして夜中に歩き回るようなのがこれである。この種の彫像を「化け地蔵」と呼ぶ──変化(へんげ)を経た地蔵を意味する。昔ながらの1枚の絵は、小さな少年が、いつものお供えの餅を地蔵の石像の前へ置く様子を表現する──動く彫像がゆっくり彼に向かってかがんでいるとは、疑いもしない。

   なにげなき
 石の地蔵の
   姿さえ、
 ()は恐ろしき
 御影(みかげ)とぞなき。

〔まるで何の問題も無いように見える石地蔵であっても、夜には恐ろしい外見が推測されると言う。(あるいは、「この像が、ありふれた石地蔵になって現れたとしても、夜には恐ろしい花崗岩(かこうがん)の地蔵になると言う。」)〕

十二、海坊主
 テーブルの上に大きなイカを、体を上向きに、触手を下向きに置きなさい──『海坊主』つまり海の僧侶を想像する最初の暗示、奇怪な現実を前にするだろう。この配置で下の方にぎょろ目の付いた大きなつるつるの体に、僧侶の剃った頭との歪められた類似が有り、底を這う触手の(黒ずんだ膜で繋がった種もある)様子は、僧侶の上着の衣が揺れる動きを暗示するからである……日本の妖しい文学と古風な絵本は、海坊主の姿をよく扱う。悪天候の大海から、獲物を捕まえに浮上する。

   板ひとえ
 下は地獄に、
   すみぞめの
 坊主の海に
 出るもあやしな。

〔たった1枚張られた(船乗りと海を隔てる)板の厚みを除けば、そこから下は地獄、実に妖しい事に、黒で装う僧侶が浮上するだろう。(あるいは「誠に不思議な出来事は」等々。)〕

十三、(ふだ)へがし
 家は神聖な文字と護符によって悪霊から守られる。どんな村やどんな都市でも、夜に雨戸が閉じられた通りではこの文字が見られ、雨戸が戸袋の中に押し戻された日中は見えなくなっている。このような文字は『お(ふだ)』(尊い手書き文字)と呼ばれ、白く細長い紙の上に漢字で書かれ米の(のり)で戸に貼り付けられ、種類も豊富である。幾つかの文字はお経から選ばれる──般若心経や妙法蓮華経などである。陀羅尼からの聖句もある──それは魔力を持つ。世帯の仏教の宗派を示す祈りだけのもある……他にも窓の上や脇、隙間に貼られた中小様々なこの文字や小さな版画を見ることができる──ある物は神道の神々の名前であり、別の物は象徴的な絵のみや、仏陀と菩薩の絵とかになる。全ては神聖な護符である──この『お札』は家々を守り、妖魔や幽霊は夜の間こうして護られた住居には、お札を外さなければ入れない。
 怨霊は脅迫か約束や買収の努力をして誰かに外してもらわなくては、自身でお札を外せない。お札を戸から()がしてもらいたがる幽霊を札へがしと呼ぶ。

   へがさんと
 六字の札を、
   幽霊も
 なんまいだと
 数えてぞみる

〔幽霊でさえ、六つの文字が書かれた護符を剥がそうとして、「何枚だ」と現物を数える試みを繰り返す(あるいは、「南無阿弥陀」と繰り返す)。〕

   ただ1の
 かみのお札は
   さすがにも
 のりけ無くとも
 へがしかねけり

〔(家の壁に貼られた)神の尊いお札は、固定する糊が全く効かなくなっても、どんなに努力しようと1枚も剥がせない。〕

十四、古椿(ふるつばき)
 昔の日本人には、昔のギリシャ人のように花の精と木の精霊の概念が有り、幾つかの可愛らしい話が語り継がれている。また木には悪意の有る存在も住むと信じられた──妖木。別の妖しい木の中で、美しい椿(キャメルジャポニカ)は不吉な木と言われている──少なくとも赤い花が咲く品種はこう言われ、白い花を咲かせる種はもっと評判が良く、珍品として大事にされる。大きくぼってりした深紅の花は、しぼみ始めると茎より自ら身を切り離し、ドサッと音を立てて落ちる珍しい習性が有る。昔の日本人にはこの重くて赤い花の落下が、刀で切り落とされる人の頭のように想像され、その鈍い落下音は切断された頭がドタッと地を打つようだと言われている。それでも日本の庭で気に入られて見えるのは、つやつやした葉振りの美しさが適しているからで、その花は床の間の飾りに使われる。しかし侍の家庭では、戦時の間は椿の花を決して床の間へ置かないしきたりが有った。
 読者は次の──収集品の中で最も気味悪く見える──狂歌で、椿の妖かしが「古椿」と呼ばれているのに気が付くだろう。若い木は妖かしの傾向は想定されていない──長い年を経た後の存在だけが発現させる。別の奇怪な木──例えば柳や(えのき)──も、同様に古くなった物だけが危険になると言われ、類似した信仰は──子猫の状態では無邪気だが、老年に魔性を帯びる──猫に見られるように、神秘的な動物を対象に普及している。

   夜嵐に
 血潮いただく
   ふるつばき
 ほたほた落ちる
 花の生首

〔夜の嵐によって振られた、血の冠と古椿、ほたほた(の音と共に)血みどろの花の頭が次から次へと落ちる。〕

   草も木も
 眠れる頃の
   小夜風(さよかぜ)
 めはなの動く
 古椿かな

〔草も木でさえ眠る頃の夜のそよ風の下──古椿が目と鼻を(あるいは、古椿が芽と花を)動かす。〕

   灯火(ともしび)
 影あやしげに
   見えぬるは
 油しぼりし
 古椿かも

〔灯火の光が不気味に見える(理由)について──ひょっとして古椿(の実)から(しぼ)った油なのだろうか。〕
 *  *  *
──この狂歌に書かれている話と民間信仰にまつわるほとんど全てがチャイナから渡来したように見え、日本の木霊の話の大部分はチャイナに起源を持つと思える。極東の花の霊と木の精霊のように、まだ西洋の読者によく知られていない次のチャイナの話は興味を惹くかも知れない。

 花への愛情の深さで有名な──日本の書物では唐の武三思(ぶさんし)と呼ばれる──チャイナの学者が居た。彼はとりわけ牡丹を好み、極めて巧みに根気よく栽培した。
 ある日、たいそう顔立ちの良い娘が武三思の家へ来て、奉公したいと懇願した。事情が有って卑賎な仕事を捜さざるを得ないが、文芸の教育を受けているから、そう言う訳で出来れば学者への奉公を望んでいると言うのだ。美貌に魅せられた武三思は、ろくに調べもせず住み込みで雇った。疑いようもなく優秀な奉公人である上に、実のところ、諸芸の特徴からどこかの王族の公邸か大貴族の宮殿で育てられたのだろうと武三思は薄々感じていた。礼儀の完璧な知識と最高位の婦人だけが教わる洗練された作法を示し、書道、絵画、あらゆる種類の詩歌を詠む驚くべき手腕を持ち合わせていた。やがて武三思は想いを寄せ、彼女を喜ばすことだけを考えるようになった。学者仲間や他の重要な来訪者が家に来ると、お客が待つ間に新しい奉公人をやってもてなし、会った者の皆を雅な魅力で驚かせた。
 ある日、武三思は高名な倫理学の師範である偉大な狄仁傑(てきしんけつ)の訪問を受けたが、奉公人は主人の呼び掛けに応答しなかった。武三思は自分で捜しに行き、狄仁傑に会わせて褒めて貰おうと望んでいたが、何処にも見付からなかった。屋敷の中を無駄に捜した後で武三思が客間へ戻ろうとすると、不意に前の廊下伝いに音も無く滑る奉公人が目に入った。彼女を呼んで慌ただしく後を追った。その時彼女は半ば振り返り、背後の壁へ蜘蛛(くも)のように張り付いて、彼の到着と同時に後退(あとずさ)りして壁へ沈み込み、そうして──紙に描かれた絵のように平らな──色の付いた影の他に見える物は何も残っていなかった。しかしその影は唇と目を動かして、(ささや)くように話し掛けて言う──
「畏れ多くもお呼びだしに従わなかったご無礼をお許し下さい……私は人の身に在る者ではございません──牡丹の魂だけの存在でございます。あなたが牡丹をそれはもう慈しんで下さいましたから、お役に立つために人の姿をとることができたのです。でも今ここに狄仁傑が来ています──礼節の凄まじいお方です──この姿をそう長く続ける訳にはいかず……来た所へ帰らなくてはなりません。」
 それから壁に沈み込んで完全に消滅し、むき出しの壁土の他には何も残っていなかった。そして武三思が再び彼女と会うことは無かった。
 この話は日本で「開天遺事(かいてんいじ)」と呼ぶチャイナの書物に書かれている。
「天の川縁起その他」より

遊び女
 遊び女、高級娼婦、字義通りなら「遊びの女」。エタと他の下層階級が、この女達の大きな割合を提供した。詩の意味全体は次のようになる「提灯を持ったあの若い尻軽女を見ろ。ちょっと見は可憐だ──しかし、そういうのは畜生の鬼火を燃やしている狐のちょっと見で、作り物の娘と思われる。ちょうどお前の女狐のように、古い馬の骨に過ぎないと証明されて、そうしてあの若い娼婦も、その美貌で男を愚行へと惑わす、エタよりマシな者では無かろう。」

狐火の……
 遅くなった旅人が、鬼火を怖れて語ったと想像される。最後の行は2つの読みを可能とする。『こころほそい』は「気後れ」を意味し、『細い道(ほそみち)』の意味は「狭い道」で、具体的には「淋しい道」である。

見るかげも……
 日本人は病気でひどく痩せ衰えた者を「見る影も無い」と言う──「見るに耐えない」感覚と同じ言い回しで使う事実から、別の表現をすることも可能である──「この霊的病気の苦悩する者の顔は見るに耐えないけれども、その上〔他所の男への〕秘めた想いから、今は顔がふたつ見える。」4行目の『おもいの他』という表現は「予想に反して」を意味するが、秘められた想いへの想像をも暗示するよう巧妙に作られている。

離魂病……
 4行目は珍しい言葉の遊びになっている。『おもて』の言葉は「前」を意味するが、『おもって』という「考え」を意味する発音でも読める。したがってその詩はこのようにも翻訳できる──「彼女は本心を家の奥側に隠して、決して表の側で人から見えるようにしない──〔恋の〕影の病に苦しんでいるからだ。

身はここに……
 4行目は二重の意味を表現している、というよりはむしろ暗示している。『しらが』「白髪」という言葉は、『しらず』「知らない」を暗示する。

たまくしげ……
 この詩には多様な暗示が有り、翻訳して伝えるのは不可能である。日本の女性は化粧をする間ふたつの鏡(合わせ鏡)を使う──その内のひとつは手鏡で、髪型の後ろの部分の見掛けを整えるため、それを大きな固定の鏡の中に反射させて見る役に立たせる。しかし、この離魂病の場合、その女性は大きな鏡の中に見るのは顔と頭の後ろだけではなく、自分の分身が見える。この詩では、鏡のひとつが影の病を受けたため、それ自体二枚になったと述べている。更に鏡とその持ち主の魂の間に存在すると言われる、霊的共感を暗示している。

目は鏡、……
 仮名で書くと同じで、発音も同様ではあるが、漢字で表現すると全く異なる『けしょう』という2つの日本の言葉が有る。仮名で書けば、『けしょうのもの』という表現で「化粧の品」や「怪物的存在」「妖魔」共に示すことができる。

雛型
『雛型』は特種な「模型」「縮小した複製」「平面描写図」他を意味する。

つかの間に……
 この文章中の二重の意味を全て描写する事はできない。『つかの間』は「少しの間」や「す早く」を示すが、それは「天井の支柱〔(つか)〕の間の空間〔()〕」をも意味できる。「(けた)」は横梁を意味するが、『けたけた笑う』は(あざけ)るやり方の笑いや含み笑いを意味する。化生はけたけたの響きで笑い声を立てる。

六尺の……
 本間(ほんけん)屏風は、通常6日本フィート。

髪留め
 笄は、現在では結い髪の下へ通すべっ甲の四角い棒に与えられた名前で、棒の端だけを露出するままにしておく。本来の髪留めは(かんざし)と呼ぶ。

しらゆき
『しらゆき』の表現は、ここで使われるように日本の詩歌の『兼用言(けんようげん)』つまり「二重の意図を持つ言葉」の実例として挙げられる。すぐ後の言葉と連結して、「白い雪の女」(白雪の女)という言い回しを作る──すぐ前の言葉と結合すると「何処へ行ったか知らない」(行方は知ら〔ず〕)という読みを示す。

ぞっと
『ぞっと』は、そのまま表現するのが困難な言葉で、おそらく最も近い英語の相当する語句は「スリリング」である。『ぞっとする』は「スリルを引き寄せる」や「ショックを与える」や「震えを作り出す」を示し、非常に美しい者をこう言う「ぞっとするほどの美人」──意味は「非常に可憐なので、見るだけで人に衝撃を与える女。」最後の行の『柳腰』の表現は、細身と優雅な姿に付けられた共通する言い回しであり、ここで読者は表現の前半が、二重の役割を果たすよう巧妙に作られているのに気が付くだろう──柳の枝が雪の重みで下がる優雅さだけでなく、寒さにも関わらず必ず人が立ち止まり賞賛する人間らしい姿の優雅さをも、その文脈は暗示している。

えりもとへ……
『柄杓』は長い取っ手の付いた木製の杓子(しゃくし)、水を手桶から小さな容器へ移すために使われた。

幽霊に……
 一般的に『腰が抜ける』の表現は、恐ろしくて立ち上がれない意味である。船長は柄杓の底を叩いて外そうとする間、幽霊へ渡す前に恐怖から人事不省に陥った。

幽霊は……
 死者の住む冥府は、その名前をふたつの漢字でそれぞれ「黄」と「泉」と書き、黄泉──『よみ』あるいは『こうせん』──と呼ばれる。大洋の非常に古くからの表現で、昔の神道の儀式によく使われたのが「青海原」である。

その姿……
 終わりの2行には、翻訳不能な言葉の上での遊びが有る。表現上、ふた通りの読みが可能である。

つみふかき……
 この詩には表現上の示唆よりも、不気味さが存在する。4行目の『浮かまん』の言葉は、「たぶん浮かぶだろう」や「たぶん救われるだろう」(仏教徒に於ける魂の救済)のように表現できる──『浮かみ』にはふたつの動詞が存在する。古い迷信によれば、このように溺死した霊は、生者を破滅へと誘い込める時まで、水の中に住み続けなくてはならない。どんな溺死した者の幽霊でも誰かの溺死に成功すれば、転生を得て永久に海から去れるだろう。この詩の幽霊の歓喜の叫びの本当の意味は、「今から誰かを溺死させられるかも知れない。」(非常によく似た迷信は、ブルターニュ沿岸に存在すると言われている。)人の後をぴったり追うしつこい子供や誰かのことを一般の日本人はこう言う「川で死んだ幽霊のような連れ欲しがる。」──「どこにでも着いて来たがるあなたは、溺死者の幽霊みたいだ。」

浮かまんと……
 ここでの様々な言葉の遊びを表現する試みはできないが、『おもい』の言い回しには説明が必要だ。それは「思う」や「考える」を意味するが、日常会話の言葉遣いでは、しばしば死にゆく者の復讐への最後の望みを、遠回しに表現する際に使われる。様々な芝居で「幽霊の復讐」を意図して使われた。「『思い』が帰って来た」このような──死者に言及した──叫びの本当の意味は、「怒れる幽霊が現れた。」である。

うらめしき……
 最後の行の『とももり』の名前の使用は、二重の意味が与えられている。『とも』の意味は「船尾((とも))」、『もり』の意味は「漏れる」となる。そうするとこの詩は、知盛の幽霊が船の梶の邪魔をするだけではなく、漏れの原因になると暗示する。

落ち入れて
『なまくさき風』の本来の意味は、「生物(なまもの)の悪臭」を含んだ風だが、詩の2行目で餌の臭いを暗示している。この場合、文字通りの解釈はできない、全体の構図が暗示だからである。

しおひには……
 詩の1行目の3番目の音節『ひ』は、「引き潮」と「乾いた浜辺」の『干潟(ひかた)』の「ひ」を示す役割を持っている。『勢揃え』は、ローマの専門用語「アキエス」の感覚で「布陣」を示す名詞である──そして『勢揃えして』の意味は「全隊整列」である。

西海に……
 平家つまり(たいら)氏の旗印は赤、一方その仇敵である源氏つまり(みなもと)は白であった。

味方みな……
 5行目の『はさみ』の言葉の使われ方は、とても良い兼用言の実例である。蟹や刃物のハサミを意味する『はさみ』という名詞が有って、『はさみ』という心に抱くや、大事にする、慰めるを意味する動詞も存在する。(『遺恨をはさむ』は、「敵への恨みを心に抱く」を意味する。)次とのつながりだけで言葉を読むと『はさみ持ちけり』の表現は 「ハサミを持つ」であるが、先行する言葉と共に『遺恨を胸にはさみ』の言い回しだと「恨みを胸で養う」となる。

床の間に……
 日本の部屋の『床の間』は、常に絵を吊り、花を入れた花瓶か小さくした木が置かれた、装飾目的の窪みや小部屋の一種。

たくみ
『たくみ』の言葉は仮名で書かれているから、「大工」や「陰謀」「悪だくみ」「邪悪なからくり」のどれでも表現できる。このようなふたつの読み方が可能である。ある読み方によれば、柱は不注意から逆さまに据え付けられた、もう一方によると、それは悪意から故意にそうして据え付けられた。

うえしたを……
 字義通りなら「逆さまの事態の悲しみ」。『逆さまごと』「逆さまな事件」は、災難、反対、逆境、無念の庶民的な表現。

壁に有る耳よ
 (ことわざ)を暗示する『壁に耳あり』であるが、意味は「私的であっても、他人についての話し方には気をつけろ。」

売り家の……
 4行目に、意訳できる表現よりも更に多くを暗示する語呂合わせが存在する。『われ』の意味は状況によって「私」「私の物」「自前の」等々、『われ め』(と間を開ければ)「私の目」と解釈するのだろうが『われめ』(と続ければ)ひび割れ、裂け目、分離、亀裂を意味する。読者は『逆柱』の用語が「逆さまの柱」だけではなく、逆さまの柱の妖魔や化生を意味すると覚えているだろう。

おもいきや……
 言い換えれば「額の詩さえも逆さま」──全く正しくない。『はしら掛け』(「柱に吊るされる物」)は、銘木の薄い板を指定し、彫ったり描いたりして、装飾として柱へ吊るす。

化け地蔵
 おそらくこの用語は「形状が変化する地蔵」に与えられたのだろう。動詞の『化ける』が意味するのは、姿を変える、変身を経験する、怪異を起こす、その他諸々の超自然的事象である。

なにげなき……
 花崗岩の日本語は『御影』、神徳や天皇に関して用いる敬語の『御影』もまた存在し、それが示すのは「尊い容姿」「神聖な霊気」等々……文字通りの解釈では、後半の読みの5行目の効果を暗示できない。『影』が示すのは「陰」「姿」「力」──特に見えない力 、前に付く敬称の『御』は、神々しい名称や特質に添える「高貴な」と解釈できるだろう。

板ひとえ……
 洒落が手に負えない……『あやしい』の意味は「怪しい」「不思議な」「超自然的な」「妖しい」「疑わしい」──始めの2行は仏教徒の諺を典拠としている『船板1枚下は地獄』(拙著『仏陀の畠の落穂』206ページに、この格言への参照がもうひとつ有るので見られたし 。)

(ふだ)へがし
 『へがし』は、動詞『()ぐ』「もぎ取る」「()く」「引き剥がす」「分離する」の使役形である。『札へがし』の用語は「尊い護符を剥がす幽霊」を示す。読者は拙著「霊的な日本より」の中で、『札へがし』にまつわる良質な日本の話を見付けられる。

へがさんと……
 4行目は2通りの読み方をさせる──
『なんまいだ』──「そこに何枚の紙があるのか」
『なむあみだ』──「阿弥陀仏に帰依します」
『南無阿弥陀仏』の祈りは、真宗の多くの信者が主に唱えるが、特に死者への祈りには他の宗派でも使われる。それを繰り返す間、仏教徒の数珠で祈りの声を数える習慣を、「数えて」の言葉の使い方で暗示している。

夜嵐に……
 3行目の『ふる』の言葉は、二重の役割を果たしている──形容詞の「古〔い〕」と動詞の「振る」である。『生首』という古い表現(文字通りなら新鮮な頭)は、切断されてから間が無くまだ血が滲み出す人の頭を意味する。

草も気も……
 仮名の「め」でふたつの日本の言葉が書かれている──片方の意味は「芽」であり、もう一方は「目」である。同様に「はな」の語句も「花」と「鼻」のどちらの意味にもなる。不気味さで、この短歌は明らかに成功している。

灯火(ともしび)の……
『あやしげ』は「怪しい」「奇妙な」「超自然的な」「疑わしい」の形容詞『あやし』の名詞形。『影』という言葉は「光」と「陰」の両方を示す──ここでは二重の暗示に使われている。昔の日本で使われた灯火には椿の実から採った植物油が使われていた。読者は古椿の言い回しは、椿の妖かしと同等の表現だと覚えているだろう──椿は古くなった物だけが妖木に変わると想像された。

牡丹
 牡丹はここで言及する──ある花は日本で非常に尊重された 。8世紀にチャイナから輸入されたと言われ、今では5百を下らない種類が日本の庭師によって栽培されている。

目次 前へ 次へ 原文